広島の学習塾|一斉指導・個別指導・少数指導で学力と実力を鍛えます
季節講座・イベント等

会長

星降る一夜合宿

学習共同体河浜塾では、小学生を対象に毎年「星降る一夜合宿」を行います。場所は、学習共同体吉和山荘。西中国山地のど真ん中、廿日市市吉和の県立もみの木森林公園の近くです。この巨大ログハウスが完成して20年。20年前、まだ2階部分が完成していないのに、待ちきれなくなって行った合宿が第1回目の星降る一夜合宿でした。その頃、河浜はまだ33歳でしたね。
星降る一夜合宿では、夜実際の夜空をみんなで眺めながらサーチライトを使って解説をします。子供たちは手が届きそうな星空の満天の星たちに感動。夏の大三角形・さそり座・いて座・北極星や北斗七星にカシオペア、太陽系の惑星や天の川・・・、実際の星を見た後は、それぞれの星座のギリシャ神話を語り、古代の人間たちが夜空を見上げて作った物語の世界に誘います。そして、恒例の花火遊びをして、夜は更けていくのです。今年も学習共同体のジョバンニやカンパネルラたちを、星めぐりの旅に連れてまいります。それは宮沢賢治の星めぐりの歌のように・・・
あかいめだまのさそり・・・ ひろげた鷲のつばさ・・・

学習共同体河浜塾さんの写真
学習共同体河浜塾さんの写真
学習共同体河浜塾さんの写真
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八幡本通り商店街

昨年、私が「相棒」とも呼ぶ地元の友人が、八幡本通り商店街に入会するので、一緒に入ってほしいとの依頼を受けた。是非地域おこしに一肌脱ぎたいというのだ。郊外型の大型ショッピングセンターの出店が相次ぐ佐伯区八幡地区。学習共同体河浜塾の本拠地のある地域であり。私の家はその裏通りである八幡本通り[通称:ふれあい通り」に面している。

裏通りと表現はしたが、かつてはバスが通る幹線道路であり、佐伯区の北部に位置しながらも、佐伯区内で最も古い商店街でもある。

佐伯区河内地区に、明治時代初頭に殖産興業の政策によってつくられた紡績工場によって、佐伯区に五日市駅が造られ、そこで、荷馬車に積み替えられて紡績の原料綿花が運ばれた道が、八幡本通りである。

また南北に貫く八幡川の現在の郡橋あたりから河口を結んだ船便によって、その郡橋当たりを中心に商店街は形成された。

ところで、わたしが、ラジオ番組を持つようになって、もう何年もたつ。FMはつかいちは聴取範囲がひろく、海岸線であれば、呉の吉浦の手前まで聞くことができる。安佐北区ではちょっと聞きにくいが、広島市の他の地域ではだいたい普通に聞くことができる。また、FMはつかいちのホームページからUstream配信が行われており、今ではインターネット環境が整えば、全世界で聞くことができる。

古くは音楽の世界の端っこに身を置きながら、平生の活動を行っていた河浜に、ラジオパーソナリティーとしての道が開かれて、以来、古い仲間たちが若いミュージシャンたちを次々に紹介してくれるようになり、今では周りに若いアーティストたちがあふれるようになった。そんな人たちをそのまちおこしに出演させたいという思惑も、河浜に対する商店街へのお誘いにつながったものと思える。

いずれにしても、地域につながらせていただくことは、その地域の教育状況を把握するためにも良いことだと思っている。本部八幡校以外の教室でもそうした動きがあれば、ぜひ参加することができればとも思う。非力ゆえできることはそれほど大きくはない。でも地域に支えられ、地域教育に貢献できての私塾である。各教室がそれぞれの地域においてそのようであれれば幸いである。

八幡本通り商店街&八幡神社主催七夕祭りと夏越大祭:
7月6日(日)佐伯区八幡(やはた)神社にて

吉田松陰の教育に学ぶ 教育に対する情熱

私は数年前に、吉田松陰についての著作を発表したことがある。そして、彼が教育に対し並み並みならぬ情熱を持っていたことを再確認した事実がある。

皆さんは、あの有名な「ジキル博士とハイド氏」や「宝島」を書いたイギリスの文豪ロバート・ルイス・スチーブンソンをご存じだろうか。吉田松陰のことを書き始めるにあたって、彼の名を書くことは、唐突に思われよう。しかし、それには理由がある。1880年、スチーブンソンは、「ヨシダ・トラジロウ」という著作を発表しているのだ。「吉田寅次郎」は、本稿の目的とする吉田松陰その人である。

吉田松陰の伝記が「日本で」初めて書かれたのは1891年の「吉田松陰伝」といわれ、野口勝一・富岡政信による。したがって、世界で初めて吉田松陰の伝記を書いたのは、このスチーブンソンだということになる。これは驚くべきことだ。スチーブンソンがどうして松陰を知っているのだろうと不思議に思われよう。それには、一人の日本人がかかわっていた。

その日本人の名は「正木退蔵」。東京大学の一つの母体となった東京開成学校の設立にかかわり、さらに東京職工学校(現東京工業大学)の初代校長となった彼は、日本発展のためにつくられた技術教育の学校の中で、松陰を手本とした教育を展開した人物である。

もちろん彼は、若き時代に松下村塾に学んだ。しかしその期間は短期間である。短期間ではあったが、松陰は彼の中での大きな存在だったに違いない。

かれは、イギリスへの留学中の1878年、エジンバラ大学の教授に招かれた晩餐会で、二人の人物と会う。一人は後に正木の求めに応じて日本で機械工学や物理学の教鞭とることになる当時23歳のユーイング。ユーイングはさらにその後にケンブリッジ大学などで教授を務め、晩年にエジンバラ大学の副学長にまでなる。そして、もう一人が28歳の当時無名の作家だったスチーブンソンである。退蔵31歳の時であった

この晩餐会の席で、退蔵は、その師である吉田松陰の豊富な知識、熱のこもった教育、そして、実行と失敗を繰り返した生き様を、師同様に熱く語ったに違いない。スチーブンソンはその話に感銘を受けたのだ。

「ヨシダ・トラジロウという名は、ガリバルディ(イタリア統一戦争で活躍)やジョン・ブラウン(奴隷解放の乱の指導者)のようによく知られた名前になるべきだ」と最大の賛辞によって伝記「ヨシダ・トラジロウ」は始まり、「私自身は正確には本書の著者ではないと言いたい。この物語は理性的な日本の紳士・正木退蔵氏から聞いたことを伝えるものである。

彼はヨシダのことを、大きな誇りを与えてくれた偉大な人物として、情熱的に語ってくれた」とある。正木退蔵にとって、松陰との出会いが後の人生にどれだけ大きな影響を与えたかを知ることができるエピソードである。その情熱は、かの若き文豪にペンを持たせるほどのものだったのである。

退蔵は後に外務省に転じ、ハワイ総領事などを歴任した後、東京の巣鴨に静かに眠っている。今、その墓を見おろす霊園の桜は、風に誘われ桜吹雪となっているかもしれない。春、新年度のスタート。われらはまず退蔵やスチーブンソンを感じさせたように、熱情ともいうべき情熱で生徒に向かおう。生徒諸君に語ってもらえる燃えに燃えた存在として…。そして、生徒の記憶に残る塾でありたい。

青春

「青春」             サムエル・ウルマン

青春とは、人生のある期間ではなく、心の持ち方を言う。

バラの面差し、紅の唇、しなやかな肢体ではなく、

たくましい意志、ゆたかな想像力、燃える情熱をさす。

青春とは、人生の深い泉の清新さをいう。

 

青春とは、おそれをしりぞける勇気、

安易を振り捨てる冒険心を意味する。

ときには20才の青年よりも、60才の人に青春がある。

年を重ねただけで人は老いない。理想を失うとき初めて老いる。

歳月は皮膚にシワを増すが、情熱を失えば心はしぼむ。

苦境・恐怖・失望により気力は地に這い、精神はチリとなる。

 

60才であろうと、16才であろうと人の胸には、

驚異に魅かれる心、おさな児のような未知への探究心、

人生への興味の歓喜がある。     ―(以下略)―

 

上の詩は幻の詩人といわれるサムエル・ウルマンの詩だ。多くの人によって紹介された有名な詩であり、マッカーサーが自分の部屋に掲げていたことや、かの松下幸之助がよく引用したことなどでも有名である。

ところで、受験生は今、全力を尽くして受験への歩みを進めている。もっとも中学入試、公立高校選抜Ⅰは既に終了しているが。その生徒の皆さんは今までに、全力を尽くして何かにチャレンジしたことがあっただろうか。全てを忘れて一つの事にうちこんだことがある生徒はそれほど多くはなかろう。何かを成しとげた感動を心に抱いたこと、その感動に涙したことはあっただろうか。私は、そうした道のりとその感動を「青春」とよぶのだと思っている。

受験はある種スポーツのようなもの。大きな大会の前に一生懸命に練習をして大会に臨むことと同じように、懸命の努力をして受験に臨む。その努力がなければ、子供たちは、受験を通して大きく成長することはないだろう。彼らが大きく成長し、そして合格の感動を味わうことができるのは、受験前の努力があればこそである。努力もせずに、ただ通り過ぎるだけの受験をした者には感動はやってこない。感動は努力のあとにやってくるものなのだ。そうした感動を是非、生徒たちに味わって欲しい。そのとき彼らは青春を感じてくれるかもしれないと思っているからだ。私たちはそうした「感動の種まき」を子供たちと一緒に行っている。そしてほとんどの生徒が、合格の喜びを手にしていく。

ところがごく少数ではあるが夢敗れてしまう生徒もいる。その挫折はやはり重い。生徒たちの生きてきた年月は大人ほど長くて重いものではないかもしれないが、伸びようとするエネルギーが大きくて強いぶん、のぞみがかなわなかった時に味わう絶望感は大きい。挫折は望んで味わうものではないが、若いうちに挫折を乗り越える経験を積むことは、それはそれで大きい経験になる。ただこれも努力せずに流されてしまった上の挫折は、将来に何も生まない。

受験は、やはり準備期間に情熱をもって十分に努力をすることに意義がある。そして行う「感動の種まき」にこそ青春がある。そして私自身はその青春を生きる生徒たちとともに今年も青春を重ねている。

会長  河浜 一也

感動のある塾

私はよく講師と生徒を、針と糸にたとえます。講師は生徒を導く針です。子供たちを導くために、針はとがっていなければなりません。世の荒波を越えさせるためには鋭くないといけません。子供たちについてきてもらうためには、光っていないといけません、輝きを失ってはいけません。そのために講師は、努力を怠ってはいけません。そして、子供たちをまっすぐに未来へと送り届けるためには、自分自身が曲がっていてはいけないのです。

講師は、鋭さを保ちながら、光を放ちながら、まっすぐに、子供を導いていきます。しかしいずれ、縫うことを終える時がきます。すると針は必要なくなるのです。もちろん針がついたままの布なんて危なっかしくて使えません。我々がいらなくなって、はじめて子供たちは自立するのです。

卒業の時、一回りも二回りも大きくなった子供たちから、感動の言葉を受けながら、その目にキラッと光る涙を見るために、我々は活動を続けているといっても過言ではありません。

そして、私たちの活動は、子供の縫い目となって残ります。途中で曲がったり、止まったりした縫い目を持った子供たちが、いずれ人様の役に立てるように、また自分自身が親となり、縫うことを始めることができるように、学力だけでなく、人として大きく育ってくれることを願ってやみません。学習することはスポーツと同じ、人間を大きく育てる一つの手段です。教えることを通してそんな感動のある塾であり続けることをお約束します。

訃報 上中邦雄先生逝去

6月27日木曜日朝、当塾顧問(元・上中学院塾長)上中邦雄先生が逝去いたしました。皆様の生前のご厚誼に心より感謝申し上げますとともに、先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

ここに、29日のご葬儀の際に、当塾会長河浜が読み上げた、弔辞の全文を掲載し、先生のご生前の業績をたたえるとともに、私どもを指導していただいた先生の今迄に、感謝の気持ちを捧げます。

 

河浜の弔辞

先生、今回ばかりは、多くの言葉を持つつもりの河浜も、本当にどう言葉をおかけすればよいのか、当惑しております。そして、何よりも、いくら言葉を並べても、先生と呼びかけても、先生のお声が返ってこないことがあまりに悲しく、また信じられず、その悲しみにはとても深いものがあります。あまりにも早いご逝去の報は、私たちを動転させました。

 

しかし、運命とは言え、先生が逝かれたことを受け入れざるを得ない私たちに、先生のさわやかな遺影はいつものように穏やかに笑っておられます。その落差に、このことが現実ではないように感じられてなりません。でも現実は現実なんですね。

 

先生、私は先生と今世でお会いできたことに心から感謝しております。先生と私の出会いは、広島私塾連盟が発足した二十五年前でしたね。当時、学校での教師としての生活にピリオドをうたれ、その頃広島を代表する学習塾の一つだった学習サークルを支える専任講師として、活躍しておられました。また、先生はテレビ新広島の奥様番組に出演され、家庭教育のアドバイザーとして熱弁を振るわれました。先生は朝の番組・私は広島テレビの夕方の番組、ともにテレビ出演の日々を過ごしました。

 

その後、十八年前、地元に「上中学院」を設立され、地域教育に大きく貢献されました。その真摯な教育活動・金銭主義に走らない教育者としての態度は万人の認めるところです。

 

さらに先生が脳こうそくを患われたことを期して、八年前私の経営する学習共同体河浜塾と合併、そして、ご回復後、学習共同体グループ顧問として、私たちに多くの示唆を与えられ、とりわけ私に対しましては教育・経営にわたるアドバイザーとして、常に的確なアドバイスをいただきました。なによりも、河浜を信頼して下さり、上中学院の後を託すものとして、教室をお委ねいただいたことは、この上なく光栄なことと思っております。これからも先生からのご期待に応えるよう、努力して参りたいと思います。本当にありがとうございます。

 

そのわたくしからしてみますと、上中先生は、十歳年上の大先輩。その温和なお人柄、見識の広さ、教育に対する研究熱心な姿勢。そのすべてが私の目標でした。

 

私は当時必ず週に一回は上中学院で授業を持ちました。それは、授業後に先生とディスカッションをし、教育の方法。広島の教育情勢・塾業界の様子など、多くの分野にわたって先生からアドバイスをうけるためでもありました。先生、あのころはいろんなことについて話し合いましたね。その一つ一つが、現在の私の糧となっております。また、先生とお話しすることはとても楽しい時間でもあったのです。

 

教育者が教育に向かう心構え、まじめに生徒の立場に立って教育を推し進めること、決して利潤第一の塾運営をしないこと。さらには、これから先の高齢化社会の中での塾運営の在り方など、その一つ一つの教訓が、今私の中にあります。

 

先生の持つ教育技術についてもいろんなことをお教えいただきました。特に公立高校入試について県教委から発表される講評の文言の分析、指導要領から掘り起こす分析や出題予測は、他の追随を許すものではありませんでした。

 

そして、先生、私がさらに教わったことは、ご家族に対する愛情でした。私は先生がご家族を大切に思われ、愛情を注がれたお姿を垣間見させていただきました。何度先生の口からご家族のお話を聞いたことでしょう。奥様への感謝、お子様の話をされる柔和な表情。その都度あふれこぼれてくる愛情のかけらをひしひしと感じながら、私自身もそうあらねばと教えられました。ただ、ご結婚されたばかりのご長男。お二人の娘さんは、片やは三人目のお子さんをお腹に宿し、片やは、これから人生のより華やかな時期を迎えられるであろうことを想像すると、もう少し長く生きられれば、もっともっと多くの楽しいご家族との日々があっただろうと、残念でしかたありません。しかし、先生、先生の愛するお子様方は、言うまでもなくご立派に育ってこられました。きっと、先生の愛情の深さを感じ取っておられることと思います。

 

先生私は先生に塾名に上中学院という名を留めることをお約束しましたね。他にも合併したり吸収した教室を持つ河浜塾ですが、上中学院だけは学習共同体上中学院とさせていただきました。

 

私は、私の生ある限り、最大の努力で、上中学院のともしびを消さないよう努力しようと決意しています。上中学院は昨日も先生の教えを守り、職員一同哀しみを抑えて、授業を続けました。本日も教室を閉じることなく、授業を続けます。留めることなく流れる時の流れは、私どものかたわらを音もなく流れて参りますが、どうか、これからも天にあって上中学院と河浜塾を見守ってください。先生からいただいた多くの教訓を守り続けるとともに、これまでのご厚情に対する限りない感謝の気持ちをお捧げして、心からの私の弔辞とさせていただきます。先生これまで本当にありがとうございました。

 

平成二十五年六月二十九日

学習共同体河浜塾・上中学院

代表取締役会長 河浜一也

 

文部科学大臣を囲んで

5月11・12日、現内閣の下村博文文部科学大臣兼教育再生担当大臣が広島入りされ、講演や懇親・視察が行われました。
下村大臣は小学生の時に交通事故で父上を亡くされ、苦学されて政治家になられた方で、カワハマは10年以上のおつきあいをさせていただいています。
写真は、懇親会の席上での先生のお誕生日を祝ってのサプライズ。お祝いを申し上げながら、進行役を務める河浜と、下村文部科学大臣です。

下村博文文部科学大臣兼教育再生担当大臣を囲む会で、壇上で会の一場面を進行する河浜と下村大臣。

5月に誕生日を迎える下村文部科学大臣に、バースデイケーキのサプライズ企画。右は企画を進行する河浜。

河浜は、下村文部科学大臣が広島入りされる際には、たいてい訪問先のコーディネイトなどを担当する。

下村大臣は、小学生の頃に父上をなくされ、苦学を重ねて政治家となった方、苦学する多くの方々にも希望を与えている。写真は、懇親会終了後のツーショット。

 


 

塚本先生おめでとう

5月9日午前。廿日市市宮島の厳島神社のおいて、当塾本部長の塚本幸一が、仲間に見守られながら挙式。美人の奥様との門出は、雲一つない晴天のもとで、真っ青な海に白無垢が映える素晴らしい一歩となりました。おめでとう~。

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