母の誕生日の思い出です。小学校6年生の時のこと。貧しかった河浜は、おこづかいを貯めていなかったので、その年は小さなプレゼントさえ買えませんでした。そこで誕生日前日に母の好きなワタリガニを取ろうと当時住んでいた呉市音戸町の島を流れる小さな川の河口で足を水につけて、大きなカニをさがしました。でも、カニは取れずじまい。そしてその夜に発熱。母の誕生日の朝、母は私を背負い病院までの長い道のりを歩きはじめました。当時の我が家には車などありません。小6になった男の子を背負って母は町医者の所に連れて行ってくれました。身長は母を10センチも越えていたと思います。私の足は地面をひきずっていました。当時はやせていたものの体重も母よりは重かったでしょう。途中、島の狭い路地で人が振り返っては見ます。けれど長い道のりを、母は歩き通しました。
 中1になって私は、母の故郷・広島市佐伯区に引っ越しました。そして、大学生になって音戸町を訪れた成長した河浜には、道も建物も何もかもが小さく見えました。でも、一筋の道だけは、とても長く感じました。そうそれは、あの時母が自分を背負って歩いてくれた道・・・。
 その夜、父が呉市内でバースデイケーキを買って帰りました。ケーキには「幸子さん、お誕生日おめでとう」と書いてありました。父の母という一人の女性に対する精一杯の「ご苦労さん」だったんですね。
 トイレも共同、台所も共同、私の部屋はときおり雨漏りする屋根裏部屋で、銭湯通いの毎日。両親は、そんな貧しくちっぽけな家庭でも、豊かな愛情に満ちた家庭で私たちを育ててくれました。河浜はそのことを幸せに思います。
 一昨年の6月、母のバースデイケーキのプレートには、「お母さん」ではなく、亡くなった父の代わりに、「さちこさん、おたんじょうびおめでとう」と書いてもらいました。塾を開いた当時は、会計を中心になって手伝ってくれた母。今でも何か手伝いたいらしく、今年86歳になりますが、まだまだ元気でワードや会計ソフトを操っています。